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<作曲者>
セザール・フランク
(ベルギー−フランス:
1822-1890)
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−フランス国民音楽のバックボーン−
フランクたちフランス国民音楽派が目指そうとしたもの
『私にとって芸術とは“形”である。
表現、情熱――これらのものは何よりも素人を魅惑する。
だが芸術家にとってみれば話は別である。
優美な輪郭線、調和のとれた色彩、美しい和音の連続によって完全に満足させられないような芸術家は芸術を理解していないのである……。
16世紀には世紀を通じてあらゆる感情が締め出された称賛すべき作品が書かれていたのである。』
(フランス国民音楽の祖 カミーユ・サン=サーンスの言葉ーエマニュエル・ビュアンゾ著 田辺保訳「フランク」(1971年・音楽之友社刊)より)
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(フランクの祖国・ベルギーの夜明け)
−1830年8月25日,劇場で湧き起こったナショナリズム−
1830年8月25日のベルギー、ブリュッセルのモネ劇場。
この日のだし物がある二重唱の場面にまで進んだとき、聴衆たちのうちの少なからぬ数の一団がにわかに興奮しはじめて劇場の外へ飛び出し、ネーデルランド(現在のオランダ)から赴任して来ている駐在大使の公邸や、同国資本の新聞社などを襲撃するという挙に出た。
彼らが見ていたスクリーブとドラヴィーニュの台本、オーベールの作曲によるオペラ『ポルティチの唖娘』は、圧政をしく征服者スペインに反逆を企てた17世紀のナポリ市民たちを主人公としており、行動へと駆り立てた二重唱は、貧しい漁師とその親友に扮した歌手たちが歌う『祖国に捧げる愛』と題されたものだった。
この当時のベルギーはネーデルランドの領土の一部分とされてその苛政下におかれ、経済不況、失業者の増加といった社会不安のただなかに立ちすくんでいた。劇場の市民たちは舞台の上に自分たちの今の姿を見、いたたまれなくなって駆け出したのだろう。
ともかくこの日の騒乱はすぐに近隣の地域へと飛び火し、各都市での義勇軍の結成を促して、やがてはフランス、イギリスからの支援までとりつけ、翌年のベルギー独立にまでつながってゆく。
(19世紀のフランス文化圏の音楽)
−世俗的な成功と出世を目的とした劇場音楽の氾濫−
「今日」という空間に住んでいる聴衆が今、どんな舞台を見たがり、どんな歌を聴きたがっているかを敏感に嗅ぎとり、すかさずそれを新作に仕立てあげて舞台上に送りこんでいたのが、この当時にオペラにたずさわっていた興行師、脚本家、作曲家だったのだろう。
だからこそ、オペラはこのようにときとして、一国の命運に関わる事件にさえ登場し得た。
19世紀のフランス文化圏で活躍した、オペラ、バレエといった劇場音楽の作曲家たちの経歴を調べると、彼らのそれが「幼い頃から抜群の才能を発揮し」「パリ音楽院で学び」「『ローマ賞』を受賞して才能を認められ」「『○○』の成功によって流行オペラ作曲家の仲間入りをし」「続く数篇でも大成功を収め」「パリ音楽院の教授に就任」といった具合に、それぞれが互いによく似通っていることに、すぐに気付かされる。
作曲を学ぶ才能ある若者たちのもとへは、遺漏なく劇場関係者から作曲依頼が舞い込み、一定の生硬を収めた作品の作曲者には続けて次の仕事が来、大ヒット作を書くことのできた者が巨額の報酬と名声を手にし、末は音楽院の教授としての安定した地位と権力までをも得る――ということのようだ。
(「ミニヨン」などのオペラで名をあげ、長年パリ音楽院長(=フランス音楽教育界の頂点)の座に君臨したアンブロワーズ・トマ(右写真)がその究極の成功例である。) |

<当時のパリ音楽院長>
アンブロワーズ・トマ
(仏:1811-1896)
トマは自分には理解しがたいフランクの音楽を極端に毛嫌いし、フランクが切望した音楽院作曲科の教授には最後まで就かせることはなかった。 |
すでに紹介したモネ劇場のエピソードと考え併せれば、この当時のフランス文化圏でのオペラ、バレエが楽壇においてはその炉心部分として存在し、作曲家、歌手たちの前に出世街道をひらき、社会にあっても各層からの膨大な数の聴衆を集め、莫大な額の金のやりとりを産んでいた
様がしのばれる。
だがそんな19世紀フランス楽壇にも、成功を収めた劇場音楽を一篇も作曲しなかったにも関わらず、生前から今日まで一貫して尊敬をはらわれ、その作品もまた演奏されつづけてきた異色の作曲家はいた。
(セザール・フランクの登場)
−安易な世俗的成功を求めなかった”親不孝者”−

(フランクの故郷−リエージュの市街)
リエージュはベルギーの首都ブリュッセルの東にあり、ベルギー国内でも
フランス語(ワロン語)圏である南部のワロン地域の主要都市の一つである。
(ちなみに北部は「フランダースの犬」で有名なオランダ語圏のフランダース地域)
リエージュは約1,000年以上の歴史を持つかつての強力な司教領国であり、
一種の宗教都市であった。そのため歴史ある教会がいくつも現存している。
宗教色濃いリエージュの歴史と風土は、幼いフランクに多大な影響を与えた。
(リエージュについては、ベルギー観光局の紹介ページに詳述がある。)
ベルギー中東部の古都リエージュで1822年12月10日に生まれたセザール・オーギュスト・ジャン・ギョーム・ユベール・フランク(通称:セザール・フランク)は
、幼い頃からのピアノのレッスンを通じて音楽を身につけ、11歳で地元のリエージュ音楽院に入学したが、これは彼をその弟と共に“兄弟デュオ”として有名にしたいと考えていた父親の意向によるものだった。
「孟母三遷」(もうぼさんせん:古代中国の思想家
孟子の母親が、我が子の教育に良い環境を目指して3回も住居地を変えたという故事)さながらに、この数年後にはわざわざ一家を挙げてパリに移住し、息子たちにより高いレベルのレッスンを受けさせたほどの、この教育熱心な父親の期待にこたえ、フランクも1837年に15歳で弟ともどもパリ音楽院への入学を果たしたのだったが、このヨーロッパ屈指の水準を誇る名門に学ぶうち、彼の興味は次第に作曲へと移っていった。
最初はそれを黙認していた父親も、やがて息子が新進作曲家の登龍門とされる作曲コンクール「ローマ賞」に応募する気でいると知るや、息子を強引に退学させてベルギーに連れ帰り、自らの人脈を駆使して仕事を取って来、コンサートピアニストとしての演奏活動に入らせた。
が、やはり、というべきか、「作曲」などという内面的で論理的、かつ孤独な仕事に自らの生きる道を見出しつつある若者が弾くピアノは、客にしてみれば上手くはあってもそれほど面白いものではなかった。活動の場をパリにも拡げてみたりなどしてもやはり振るわない。
ところが皮肉なことにフランクの作曲活動の方は、ごく一部の人々の間にではあるが注目をあつめつつあったのだ。'46年、24歳のときに書きあげた、聖書の物語(旧約聖書のルツ記)に取材した楽曲『ルツ』の初演は
、リスト、マイヤベーア、モシェレスといった楽壇の大御所連の臨席のもとに実現したのだった。
そしてこれに勢いを得たか、フランク本人も父が強硬に反対する相手(門弟の一人で女優のデムーソー)との結婚にふみきってしまう。
息子にはもはや自分の力が全く及ばないことを悟った父親は、フランクに絶縁を言い渡し、演奏活動のマネージャー役からも退いた。
ソロピアニストとしてそれまで得ていた収入はこれによって絶たれ、注目もされず、報酬も少ない伴奏ピアニストとしての活動や教会所属のオルガニストとしての仕事、作曲やピアノの個人レッスン、ときおり舞い込む作曲依頼などから得る収入を支えに慎ましい生活を送り、空き時間にこつこつと、理想の音楽美を実現すべく作品を書きためる歳月がはじまった――。
(ちなみに、上記のごとくセザール・フランクは、フランスの隣国ベルギーの生まれであるが、その音楽活動のほとんどをフランスで展開していたため、慣例的にフランスの作曲家として扱われる。この文でもそれに従った。)
(19世紀のフランス交響楽の奈落)
−”学校の宿題”に堕した交響曲と国民音楽協会の創立−
19世紀フランスの音楽界の中心に、オペラ、バレエといった劇場の音楽が我がもの顔で君臨していた、とはすでに述べた通りだが、いささか極端でさえあったその傾向の故に、フランスの作曲家はオーケストラのための交響曲や、弦楽器やピアノなどの合奏のための室内楽曲―要するに新作を書いても音楽院の講堂で研究発表然と演奏されるだけで、金も名声ももたらさない音楽―をほとんど作曲しなくなってしまっていた。
「交響曲の作曲は音楽院の学生に課される宿題」とまで思われていたともいわれる。
今日の我々にとっては名作オペラ『カルメン』の作曲者として親しいジョルジュ・ビゼー(右写真)はハ長調の交響曲を、パリ音楽院在学中の1855年に書いたが、その楽譜は演奏もされずにその後80年間も書庫で眠りつづけ、作曲者の死後60年目にあたる1935年にようやく初演された。
こうした事実もまたこの当時の楽壇の風潮を象徴するかのようだ。
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ジュルジュ・ビゼー
(仏:1838-1875) |
こうした傾向を嘆かわしく感じるひとりとして、作曲家カミーユ・サン=サーンスはいた。
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<フランス国民音楽の祖>
カミーユ・サン=サーンス
(仏:1835-1921)
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「私にとって芸術とは“形”である。表現、情熱――これらのものは何よりも素人を魅惑する。だが芸術家にとってみれば話は別である。優美な輪郭線、調和のとれた色彩、美しい和音の連続によって完全に満足させられないような芸術家は芸術を理解していないのである……。16世紀には世紀を通じてあらゆる感情が締め出された称賛すべき作品が書かれていたのである
」(前述)
・・・と語った彼にしてみれば、このころのフランスは「情熱」だけを起爆剤として聴衆の興奮をあおり立てる粗末な楽曲ばかりが濫造されている状態と感じられた。 |
折しもこの同時期のドイツ・オーストリアはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンら古典の楽聖たちが築きあげた様式に、そのあとにつづいた歴代の巨匠たちがさらなる磨きをかけ、間もなくそれをブラームスに継承させんとする、いわば「形式美の音楽」の豊穣な実りの季節のただ中にある。
あのうらやましいばかりの堅固な形式美を備えた音楽を、何とか我らがフランスでも誕生させられないものか。
今こそわれわれは、長い音楽の歴史のなかで磨き抜かれてきた「形式」の美に最大の尊敬をはらい、その上にそれぞれが趣向を凝らした――感覚に媚びぬ冷静な――音楽を盛りつけ、未来永劫に聴きつがれるフランス流の新しい芸術音楽を、ドイツ・オーストリアの作曲家たちをも感嘆させるような叡智の音楽を創造せねばならぬ――。
こう考えるにいたったサン=サーンスは声楽家ビュシーヌとともに、ついに1871年、「アルス・ガリカ(Ars
Galica・フランスの芸術)」なる言葉をその旗じるしとして掲げる「国民音楽協会(Société Nationale de Musique)」を立ちあげたのだった。
そしてその創設メンバーにはフォーレ、マスネ、タファネル、ギローなどといった作曲家たちとともに、他ならぬセザール・フランクも加わっている。
フランク自身はすでにこのとき49歳。
父親との訣別から20年以上がすぎ、教会オルガニストとしての経験を、そこで出会った名器とのつき合いによって大きな音楽的成熟をとげ、何篇かの教会音楽や、オルガン曲の創作によって、ある程度は有識者たちに知られる存在となっていたが、妻の勧めに従って書いたコミックオペラは上演さえかなわず、社会的には全くの無名。
暮らしぶりも依然として一庶民の域を脱していなかった。
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