(フランクと”フランキスト”の面々)
−慎み深いフランクとその音楽に魅せられた者たち−
「国民音楽協会」の結成に参加した翌年、フランクはパリ音楽院オルガン科の教授に任命された。
自宅で個人レッスンをしていた頃と較べれば格段に多人数の生徒を教えるようになっても、フランクは他の教授たちのように威丈高に振る舞うことはなかったようだ。
生徒が若さに任せてつっぱった演奏をしでかしても「私は今のはとても良かったと思う……だがここではやらない方が賢明だ」と優しく諭すばかりだった、という。
日曜日に教会でオルガンを弾いても――以前同様に――演奏に熱中しすぎて司祭の説教の終わりに気付かずにいることがしばしばであったため、フランクの演奏席のそばに大きな音のする鈴を吊るし、その音を説教の終わる合図としなければならなかった、とも伝えられる。 |

(オルガンを演奏するフランク)
彼は作曲と同様にオルガンを愛し続けた。 |
いかなる場でも自然体を貫き、音楽に向かいあっては真摯にこの上もなかった、そんなフランクのまわりに、いつしか彼を慕う生徒たち、ダンディ、デュパルク、ショーソンらがいつもつき従うようになっていった。
彼らは師匠の立身出世に興味を示さぬ音楽一途ぶりが好きではあったが、もう少し世の中が師匠の創作を認めても、そして師匠もまた認められようとしてもよいのでは、とも考えるようになり、余暇を利用してこれまで以上に新作の作曲にいそしむようにフランクに進言し、そしてその初演の準備のためなら労を惜しまず奔走するようになっていった。
“フランキスト”とは、そんな彼らに周囲がつけたあだ名であった。
やがて音楽院同様に、「国民音楽協会」でも、人がだんだんとフランクのまわりに集まるようになっていったが、それとてフランクの人となりを考えれば、フランキストならずとも理解できるところだ。
<熱烈な”フランキスト”たち>
どの”フランキスト”も師フランクの跡を継ぎ、フランス音楽の更なる向上に貢献したが、
厳格な形式音楽を尊重する姿勢から、後にフランス音楽界で大きな人気を得てきた、
形式に拘らず耽美的な作風を持つドビュッシーらの印象派音楽と対立することとなる。

ヴァンサン・ダンディ
(仏:1851-1931) |

アンリ・デュパルク
(仏:1848-1933) |

エルネスト・ショーソン
(仏:1855-1899) |
(サン=サーンスの弱気と”フランキスト”の強気)
−国民音楽協会はフランクと”フランキスト”の手に−
「協会」の主宰サン=サーンスは、生来の虚弱体質の故に他人から隔離された幼少期を過ごした、感情の乏しい大人であった。
父親の命を奪った肺結核が、いつか自分をも喰い殺すのではないか、との強迫観念にも取り憑かれており、
身の回りのあらゆることに非常に神経質であったし、そうした傾向からか他人にも極めて冷淡に、杓子定規に接した。
その作る音楽にしても、完璧にして模範的な形式美とギリシャ彫刻のような超越的な清潔感は備えていたが、聴く者の情緒にあたたかく寄り添う親密さにも、肺腑をえぐるような凄味にも欠けていた。
才能にあふれた血気さかんな若者たちにしてみれば、そうした音楽はひからびた古臭くて味気ないもの、と思えたかも知れぬ。
そうした折も折、フランクが1878年から翌年にかけて作曲した「ピアノ五重奏曲」が、整った形式美と高い音楽密度を兼ね備えた、新しいフランスの芸術音楽であると、楽壇に好評裡に迎えられたことが「協会」内部の空気を微妙に変えていった。
サン=サーンスが唱えてきた、新しい「アルス・ガリカ」の創造をフランクがなしとげつつある――。
音楽院でのフランクの生徒でもあり、「協会」のメンバーでもあった気性激しきダンディあたりが、サン=サーンスに真っ向から議論を挑むことも増えてゆく。
「協会」への自らの影響力の低下を痛感させられたサン=サーンスはやがて、自ら主宰の地位を退き、フランクが周囲に押し上げられるようにしてその地位を引き継いだ。
(そして交響曲ニ短調へ・・・)
−漲る自信と周囲の声に推されて生まれた唯一の交響曲−
形式美が重んぜられる音楽様式のうち、その絢爛豪華な雄弁の故に最も幅広い層の人々に訴えかけ得る「交響曲」。
フランス人作曲家がその作曲を長年にわたって怠ってきたこの曲種で新作を生みだすことこそ、「フランスの新しい芸術音楽の創造」を目標とするグループ(フランス国民音楽協会)の、今や長となった自分が、必ずいつかは果たさねばならぬ仕事なのではないか――。
かつてある演奏会場で、ヴァーグナー(ワーグナー)の楽劇『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲を聴いてただならぬ共感を覚え、自らの体内を流れる先祖伝来のゲルマン
(ドイツ)―交響曲の本場―の人々の血(註)に思いを馳せていた。
(註)
作曲家としてはフランス人扱いされるフランクであるが、彼の先祖はオーストリア土着民であり、(ベルギー東部にあって隣国ドイツに近い)リエージュに住み着いたのはようやく祖父母の代からである。母親もドイツ系の家系の出身であり、こうしたことも関係してか、幼年期のフランクは「ブラッドドイチェ」と呼ばれるドイツ語の一方言を話し、ドイツ風の一般教育を受けていた。
そして、以来のこの宿願を果たすべく、フランクがついに交響曲の作曲にとりかかったのは1886年のことであったが、この年は彼のその創作に有形無形の数多くの影響をおよぼしたであろう出来事が2つ起こった特別な年でもあった。
<”同志”サン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付」初演>
1886年5月19日
かつて「国民音楽協会」の主宰であったサン=サーンスが、自らの新作「交響曲第3番」を初演したのはこの年の5月19日、ロンドンでのことである。
新しい「アルス・ガリカ」を創造するという夢は、彼の胸のなかでも息絶えてはいなかった。
しかもその新しい交響曲ではオルガンがなんとも効果的に使われ、これまで誰も耳にしたことのない、まばゆいばかりの音楽世界が築きあげられているという。
オルガンはフランクにとって―同時にサン=サーンスにとっても―キャリアと精神の中枢を占める特別な楽器だ。
<”大恩人”フランツ・リストの死>
1886年7月31日
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<フランクの大恩人>
フランツ・リスト
(独:1811-1886)
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そして大作曲家フランツ・リスト(左写真)は7月31日に亡くなった。
彼は青年時代の無名のフランクの才能を、天才ならではの慧眼で見抜き、その作品をドイツの同僚たちに紹介してくれ、フランクのオルガン演奏に関しても「私は今バッハを聴いた」と誉めたたえていた大恩人である。
もっともリストに対しては、かのサン=サーンスもまた深い尊敬を寄せており、初演を終えて出版直前であった例の新作交響曲
(第3番「オルガン付」)の冒頭に「フランツ・リストの思い出に捧げる」との言葉を追記させていた。 |
恩人の墓前に、自分は何が手向けられるだろう――。
父と別れ、24年間を市井の人として暮らしたのち、志を同じくする芸術家たちと出会い、思いがけずも我が子のような齢の若者たちにも勇気づけられて、自らの芸術の円熟を自覚し、ようやく創作者としての自信を抱くにいたった64歳のフランクの背中を、運命と音楽の女神までもがさらに強く押した。
フランクの―事実上(註)―生涯唯一の交響曲が完成したのはこの2年後、1888年のことであった。
(註)
彼には1曲しかないと言われる交響曲だが、習作ながらパリ音楽院在学中の1840年(18歳の時)に作曲された「交響曲ト長調 作品13」が存在する。
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